異文化理解について戻る

皆様いつも本当にありがとうございます、代表の西島でございます。
 

前回のPost以後、数値データの取り纏め・発信が中心的な業務でした。


そうした中、テレビ放送局や大手プロダクション、
大手物販の上席方々とのディスカッションの時間がありました。
 

連携を模索しながら、双方「多くの若者にとって意義のある取り組みを、形にしていきましょう!」
との意を共にしました。
全力で形にすべく全力で取り組む所存です。
 

さて前回のWeeklyPostにて、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』に言及しました。
今回は、異文化理解について、本書を素材に、若干踏み込んでみたいと思います。
 

大阪大学人間科学部人類学講座で青木保教授・小泉潤二助教授(当時)の下、
研究素材として本書を用いておりました
(その後、青木先生は文化庁長官、小泉先生は大阪大学副学長・日本文化人類学会会長を務められました)。
 

文化人類学のテキストとしては、正直難解ではありませんでしたが、
パレスチナ系アメリカ人であるサイードのオリエンタリズム観には驚きを隠せませんでした。


一般に、「オリエンタル」とは、「東洋的な」という形容詞的な意味として用いられると考えますし、
私もそう思っておりました。
しかしながら、サイードの示すオリエントは、中東のみを射程とし、
西アジア以外の、我々にとってのいわゆる「アジア」を前提とはしないものでした。
 

主に東洋趣味を示すものであった従来型のオリエンタリズム観を本書を通じて
「人種主義的」「帝国主義的」と批判し問題提起を行ったことは理解はできたのですが、
欧米視点においては、日本・中国を含むアジアはディスクールの対象ですらなかったことに、
個人的には衝撃を受けました。


ちなみに、当時のゼミでは、参加者はこの点は特に問題視はせず、
淡々とテキスト解釈に取り組んでおりました。
 

講読を進める中で、サイードは『エジプト誌』『アラビアン・ナイト』『ブヴァールとペキュシェ』
などを素材としていることから、そうした地域設定にも一定の理解はできたのですが、
本書が著された1970年代半ばにおいては、少なくとも欧米のディスクール上で、
我々に馴染の深い「アジア」(東アジア・東南アジア・南アジア)は、語るべきアジアではなかったのです。

 

異文化理解、というワードは昨今頻繁に耳にしますが、
それもそもそも「異なるものの存在」が前提となるわけであり、
「存在はしているけれども、意味あるものとしては認識していない(=認識上は存在していない)」という
シチュエーションもありうることを、本書からは学ぶことができました
(サイードの執筆意図からずれているとは思いますが)。

 

理解以前の問題として、他者の存在を、まずは意味あるものとして認識する・受容する、ことが
大切だと思います。当然のことの様ではありますが、
実は、他者の存在を無意識に排除している恐れもあるかもしれません。

 

今回は本旨に触れることはできませんでしたが、
欧米の中東観にも驚くべきものがあります、またPostにて。

 

YTJ代表 西島和彦 2019.04.01

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